JR飯田線に乗ろう
当センターは、三遠南信地域の大切な足(移動手段)であり、貴重な観光資源でもあるJR飯田線の利用促進を図り、 JR飯田線利用者の利便性向上や三遠南信地域の活性化につなげるとともに、 2019年3月に策定されました「第2次三遠南信地域連携ビジョン」 (重点プロジェクト:「三遠南信探訪プロジェクト」鉄道を活用した観光振興)を推進するため、 東三河広域経済連合会(事務局:豊橋商工会議所) と連携した活動を行っています。
長野県内のJR飯田線沿線の市町村で組織されている 『JR飯田線活性化期成同盟会』 (*)とも情報交換などを行っています。
(*)JR飯田線期成同盟会とは、この組織は、JR飯田線の活性化を目的に上伊那地域及び下伊那地域の市町村、広域連合、経済団体、長野県等で組織され、 シンポジウムの開催、企業及び住民向け広報などに取り組んでいます。
JR飯田線の情報発信をはじめました
伊那小沢駅の上り方面(桜と分岐線)
伊那小沢駅駅名
伊那小沢駅停車
伊那小沢駅停車2
為栗駅駅名
小和田駅駅舎にて
小和田駅駅舎外観
小和田駅駅名(旧)
小和田駅近くの「3県境界駅」表示杭
新城駅で後続の特急伊那路に抜かれる
(上り列車とも交換)
千代駅駅名
(「千代」という駅名が 長生きする等といわれています)
大嵐駅近くの旧線ホーム
(佐久間ダムによる移設前のホーム)
中井侍駅駅名
東栄駅停車
飯田駅到着
秘境駅号弁当(豊橋駅の売店で購入)
JR飯田線のいろいろ
●飯田線の駅は94駅です
●標高差は約700mで多くの秘境駅が楽しめます
●長野県飯田市15駅、愛知県新城市15駅、静岡県浜松市13駅
豊川に架けられた橋(豊橋)にちなんで、町の名をそれまでの吉田から豊橋に改称。国鉄民衆駅
渥美湾の漁労に従事する漁師の船を造った船大工町のことである。豊川の河口もみえます。
親村から子村が生まれるときに、上出、下出など出る方角によってつけられる地名があるが、 単に「上」「下」とつけられることもある。ここは、下の地方へ出た集落の意と解す。
水利、水はけのよい小さい坂のある地形のところに開けた集落のこと。 駅近くに菟足(うたり)神社があり、毎年4月に風祭りが行われる。
午の意は、字、有の語感をもち、「大」のことであるというのが定説。 つまり大きな窪地にできた集落のこと。 駅から北東へ300メートルの大聖寺(だいしょうじ)に、今川義元の墓がある。 桶狭間の戦いで織田信長に討たれた義元の遺体はここに埋葬された。
■豊川駅/とよかわ 8.7km/M30.7.15/愛知県豊川市
日本三大稲荷の1つ、豊川稲荷(妙厳[みょうごん]寺)があることによるが、 豊川は稲荷よりも古くからある地名。恵みをもたらす豊かな川、付近の住民を潤す川の意である。 三大稲荷のあとの2つは、伏見稲荷(京都府)と祐徳稲荷(佐賀県)。
■三河一宮駅/みかわいちのみや 12.0km/M30.7.22/愛知県豊川市
駅から徒歩10分のところにある砥鹿(とが)神社が三河国一の宮で、 祭神大己責命(オオナムチノミコト)を祀る。
長い山形地形を拓り開いて集落を作ったことを示す地名。
川と川の間の川中島のような地形のところに発展した集落。
古くは、東城、東条と書かれたたこともあるが、江戸期以降は東上村となった。
戦国時代にこの地にあった城の名であるが、城は庄の置き換えであることも多く、 野田庄ともとれる。天正元年(1573)1月、武田信玄は菅沼定盈の野田城を攻め、 この城を落とす。のち、毎夜対岸の山から流れてくる笛の音に聞きほれていたところを、 落城した菅沼方の射撃の名手に撃たれた。
戦国時代、菅沼定継が本城のほかに新しく城を築いて新城(しんじょう)とし、 その後、奥平信昌が再び築城してから「しんしろ」と読まれるようになった。
城下町の東へ開けていったことを示す発展地名。
茶臼とは抹茶を挽くときの小さな臼のことで、円筒形をしている。そういう形をした山を表す地名。
集落発展の過程で、本郷から東へ向かって発展した地名。 安土桃山時代の天正3年(1575)5月、武田勝頼と織田・徳川連合軍が戦った 長篠の合戦の設楽原古戦場がある。信長の斬新な鉄砲戦術が勝敗を決めた、 いわゆる「長篠の戦い」である。三河は、旧国名。三河を冠したのは、 鹿児島本線の東郷駅と区別するため。
豊川と宇連川が合流する「山の湊」を誇る水量豊かな地域を示す地名。
船着山(ふなつけさん)へ入るための鳥居とか村の神社の鳥居があるためにつけられた単純地名と思われる。 長篠の合戦で長篠城を救う活躍をした鳥居強右衛門は、この地の出身者。
永正5年(1508)、今川氏に属する菅沼少輔が築城した長篠城に由来する駅名。 長篠はこの地方一帯にシノが生い茂っていたことによる。
長篠城駅と同年同月同日に開設された駅。同じ旧鳳来町長篠地区にある。鳳来寺山への最寄り駅。
大野も小野も同じで、大きい野原とは限らないが、ある程度開けた耕野のこと。 三河を冠したのは、常磐線の大野駅と区別するため。
温泉の出る谷のことで、この付近を湯谷温泉と呼んでいる。平成3年(1991)、湯谷駅を改名。
−2019年8月現在、「ようこそ湯谷温泉へ」の看板がかかっている駅舎は取り壊されてありません。
槙は杉の古名である。杉の森林があったことを示す地名。
柿の木がどこにも植樹されている平原ともとれるが、地名学的には柿は「垣 」で、垣を張った牧場のことである。
宇連川と乳岩川などの支川が合流するところにできた集落を示す地名。三河を冠したのは、水郡線の河合駅と区別するため。
池もしくは沼のあるところで旅人や馬が憩うところに適したところを明示する地名。
昭和30年(1955) に1町3村(本郷町、御殿村、下川村、園村)が合併してできた新町名。 神野山(じんのやま、938メートル)、小岩岳(985メートル)などの山々に囲まれている。 そのような山の東に栄えるの意とも、北設楽郡の東寄りに位置するからとも、 分水嶺の東側に栄えたからともいわれている。 昭和31年(1956)、三河長岡駅を改名。12月2日〜2月までこの地方では豊年と息災を祈る花祭りが行われる。 旧津具村(現設楽町)、豊根村など23か所で、それぞれ日を決めて執行する。
市場へ大量に馬を出す牧場のあったことを示す地名。
荘園時代に交易市場があったことを示す地名で、その上に開けた土地ということ。
川の長い湾曲で浦のような形を生み出した平野部に開けた集落のこと。
大千瀬川の瀬の早い土地の横に開けた水の潤沢な集落を示す地名。
2つの川が合流した地点につけられる地名が川合・河合で、その下に開けた集落を示す。
天竜川を古くは「天の中川」と呼んだ、つまり天に昇る川の意である。 中部(なかつべ)地区に降りるための天竜駅の意。 以前、駅の構内に車両展示館の佐久間レールパークがあったが、現在は名古屋に移転した。
サクは、作、開(さく)と同義で開拓地名。また狭く細く行き詰まったような形の谷をさす。 そういう地形の間に開かれた集落。
相月は愛月で、月を祀った土地であることを示す地名。
城は荘園の砦であろう。その西に開けていった集落のこと。
荘園の市場の向かい方に開けた集落であることを示す地名。
水窪駅から徒歩1時間半の水窪山住神社に由来する地名である。 標高1100メートルの高地にふさわしい地名。
ゾレは曽礼とも書き、焼畑のこと。大規模な焼畑を作ったことを示す地名。
ワダはワタで、水たまりの肥沃な土地のこと。小規模な水田を開墾した集落であることを示す。
中井侍は旧字名で、村の中央に湧いた泉(井戸)の意というが、不詳。
渓谷の中で沢の美しい土地という意味がこめられている地名。 伊那を冠したのは、函館本線の小沢駅と区別するため。
鶯の美声が聞こえる美しい渓谷があることの地名。地元の人が縁起がよいとしてつけたもの。
明治8年(1875) 成立時の村名。満島、鶯巣の2村が合併して縁起のよい文字を用いたもの。 現在は下伊那郡天龍村平岡。昭和27年(1952)、満島(みつしま)駅を改名。 満島は、住所としては残っていない消失地名。
土地の地名学者によると、国鉄の前身、三信鉄道時代につけた駅名で、 「すてぐる」という養蚕関係の言葉、「捨て栗」の変化した言葉、のいずれではないかという。
由来は不詳。素直に解釈すれば温暖地にある田どころという意味である。
中田、田中、本田と同義で、その地区の田の中心となったと素直に解釈できる。
谷川の水流が曲がるところにできた一隅の島。そういう場所を耕作したことによる地名。
旧唐笠村は、台地の突端にカサを広げたような地形が見られるのが地名の由来とされている。 現在は、下伊那郡泰阜村。
古くは「きんのう」といったところ。金渋(水などを口にしたときに感じる釘をなめたような味のする金気)の出る 野原が開けたことを示す地名。
明治8年(1875) につけられた村名(現在は飯田市)。語感のよい美称地名。
天竜川の中でもすばらしい峡谷をつくっていることを示す地名。 天竜川ライン下りの出発点。
川畔のやや広い平坦地に開けた土地を表す地名。川内、河内などに同じ。
まだ解明できない駅名の1つだが、天竜川の流れがこの付近で二又に分かれることに由来するという説がある。
古くは田科と書かれたところを見ると、田所とシナノ木(落葉喬木)が合致したところであろう。 田が駄になったのは、物資運搬の荷駄によるものであろう。
毛は稲毛などの毛で、穀物のこと。穀物のとれる崖っぷちの土地のことか。
この地に八幡神社(鳩ヶ嶺八幡宮)が祀られていることを示す地名。 伊那を冠したのは、鹿児島本線の八幡駅と区別するため。
山ふところのよい土地というところからつけられた地名。
鼎は三本脚の容器、つまり江戸時代にあった山村、一色村、名古熊村の3村が合併したことに由来する。
文字通り、石を切り出して産業としたところにつけられた地名。
米の豊富にとれる町の意で、昭和12年(1937) に市制施行。 伊那谷随一の都市で、「信州の小京都」と呼ばれている。駅前はリンゴ並木がある。
字義の通り、桜の木のたくさんある町。
古くは「かみごう」と呼んだ土地。飯田城主堀氏の所領が飯田市内の松川をはさんで北と南に延び、 ここは北に延びた土地をさす。
駅から徒歩5分のところにある如来寺の愛称が「元善光寺」。 推古天皇の頃に、信濃国麻績の里(現在の飯田市座光寺)の本多(本田)善光が、 難波でめぐり会った本尊を連れて帰って祀ったことによる。 皇極天皇の頃に本尊が現在の長野市に遷座されたが、「毎月半ば15日間は必ずこの麻績の古里に 帰りきて衆生を化益せん」とのことで、こちらが元善光寺となった。 長野の善光寺と飯田の元善光寺の両方にお詣りしないと片詣りといわれる。 昭和25年(1950)、座光寺駅を改名。本尊を置いであった台座の臼が、 光明がさして光り輝いたことから「座光の臼」と呼ばれ、元善光寺の宝物殿に残っている。
中世に市が立ったことを示す地名で、その市を経営するために必要な田の意である。 下は市場の下方に開けた集落のこと。
駅名のルーツは前駅参照。所在地は下市田駅と同じ下伊那郡高森町下市田。
平は傾斜地。上、下があるのはそのため。ゆるい傾斜地の下方に開けた集落のこと。 事実、天竜川沿いの肥沃な土地。
バラ科の落葉瀧木で春に黄色い花を咲かせる山吹が自生するという自然地名。
応永7年(1400) の大塔合戦にここの大島氏が記されていたり、大島城があったほどの古い地名。 島は河岸にある台地という説もあるが、区域の意があることも知るべきである。 伊那を冠したのは、かつての越美南線(現・長良川鉄道)の大島駅と区別するためであった。
古くは賢錐と書かれたが、田切(水流が自ら開析して浸食した地形)による命名で、その上方の土地の意。
米のよくとれる島状の地形からつけられた地名。片桐氏の流れをくむ飯島氏の拠ったところ。
高遠町は辰野の近くであるが、諏訪家の分流高遠頼継の勢力圏に入っていた原野であろう。
古くは七窪と書かれたように、窪地が7つ合わさった集落の意である。
郷の中心地であったことを示す地名。伊那を冠したのは、山陽本線の本郷駅と区別するため。
米のよくとれるところの意で、飯島は本郷を意味したところ。飯島氏の本郷城があった。
既出(上片桐駅)の田切地名の一つ。
福岡は全国に多い地名で、収穫の多い平地の耕作地という美称地名。 伊那を冠したのは、北陸本線の福岡駅と区別するため。
市場割(近くにある地名でもある)をするとき、田と田の間に作られた小規模な町屋敷があったことを示す地名。
中央アルプスの駒ヶ岳の麓にあることに由来するが、4カ町村が合併するとき、地元の総意で決まった。 旧駅名は「赤穂」で合併前の町名。この駅名のため、赤穂線の駅には播州が冠された。
水の流れによってできる田切の状態を示す地名。それが大規模に行われたところ。
郷社または山そのものを神体とみなし、その神領田であったことを示す村名から。
赤木は赤松の言い換えで、赤松の巨木が林立している集落を表す地名。
天竜川の沢渡りどころであることを示す地名。
本村から下へ出た島状の耕作地につけられた地名。
稲、イナが伊那になったと思われる。旧称を伊那部の里といい、伊那氏の拠地。また猪名部の木匠が 住んだところともいう。桜で知られる高遠へは、パスで20分。昭和29年(1954)、伊那町駅を改名。
伊那市駅の北900メートルの地点にできた駅。
田と畑がどちらにも片寄らず半々くらい収穫できる、よく調和のとれた集落を示す地名。
北殿、南殿という対の地名(それぞれ現在の字名)がある。 通称、羽広観音と呼ばれる仲仙寺の客殿に由来する地名であろう。
一集落を象徴する大樹の下方が広がった土地であることを示す地名。
清流の中の島状の土地で、松林の間を拓り開いてできた集落を示す地名。
沢渡りの場所、あるいは沢への入口であることを示す地名。
ハバはハブと同義で、ガケ、急斜面のことを表し、その上下に開けたところをさしている。
村と村の間、町と町の間にできた新しい集落を示す地名。
宮所(諏訪社領)に接した宮木には諏訪神を祀り、祖母刺国若姫の廟と伝える古墳がある。 木は城で、奥つ城(き=りょうぼ)のことか。
伊那谷の入り口。辰は、竜の換え字で、竜神を祀って水を鎮めたことに由来する地名。
●便利なこと
●2027年にリニア中央新幹線の長野県駅ができます